高尾山はなぜ“ごちゃまぜ”なのか—神仏習合という日本の知恵
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更新日:8 時間前

先日、初めて高尾山に行ってきました。
曇り空で、やや肌寒い一日。
電車で高尾山口駅に近づくにつれて、
じわじわと花粉の気配。
山に入り登っていると、
見事なグラデーションで悪化。
ううう...
鼻が辛い
目が辛い
くしゃみ連発がすごい😂
ここまでわかりやすいと、
むしろ清々しい。
「杉」の花粉症であることが本日判明。
ちゃんと調べたことなかったけど、 もう絶対杉😂
そして、目に入ってきたのは、
「杉苗奉納」の文字

奉納?
杉を?
奉納しちゃうの?
花粉症なのに?(自分が)
そうか..
なるほど...
杉は奉納されているんだ...
これって 参拾萬って三十万?
すごい数.....
杉は神の依り代(よりしろ)とされる「神聖な木」で、
寺社への寄進(奉納)として今も植樹されているようです。
杉は建材として植林されているだけではないのね。
そうか...
奉納ね...
...
杉以外でお願いします...😂
そして天狗様があちこちにおられました。
おお、
山岳信仰
修験道。

ここにも。
パリパリの皮に 中は黒豆のあんこ
アツアツの出来たて! 冷えた体にもってこいでした。
とても美味しくいただきました。
さらに進むと鳥居があり、
神道の気配。
一方で「真言宗」という言葉も出てくる。
これは仏教。

なんかごちゃまぜだなぁ...
と思ってたら、
道すがらの看板に「神仏習合」の文字。
なるほど。
高尾山は「神仏習合(神道と仏教が混ざった日本独自の信仰)」の山なんですね。
自分の無知に苦笑い...
近くの山なのに。
神仏習合とは、 仏教は大陸から伝来し、 政治や文化とも関わりながら、 日本にもともとあった神道と次第に融合していったことを言います。 飛鳥時代(6世紀ごろ)に始まり、平安時代に大きく発展したそう。
その根底にあるのは、
異なる思想を対立させるのではなく、
共存させていく感覚。
排除ではなく、受け入れ、取り込んでいく在り方です。

もともと日本にあった神道は、
厳密な教義やルールを持たず、
自然そのものを神として捉える感覚を大切にしてきました。
だからこそ、外から伝わった仏教も、
排除されることなく受け入れられていったのだと思います。
この「ゆるやかさ」や、
他を許容する柔軟なメンタリティ、
新しいものに対して開かれた国民性は、
今尚日本人の中にありますよね。
その一方で、
自然に対する畏敬の念を持ち続け、
家の中の一つひとつのものに、
どこか神が宿ると感じている。
八百万の神の存在を、
今もどこかで信じている。
だからこそ、物も人も大切にしようと思う。
神様にも仏様にも手を合わせることが、自然。 他国から見るとミラクルなんでしょうけど、
こんな背景があると思うと、
日本にとってはごく普通のことなんでしょうね。
なんかちょっと笑っちゃう気持ちも
ないことはないけど😂
ヨガの世界観は、
アーサナにおいて、
柔軟性と力強さという一見相反する要素を、
同時に成り立たせることが、
多々あると思います。
柔らかくしなやかでありながら、軸は揺るがない。
心においても、
自らの芯を保ちながら、寛容であること。
これは様々なものを受け入れながら育まれてきた、
日本の文化とも似ている気がします。
だからしっくり来るのかな😊
高尾山はハイキングの山、
というイメージがありましたが、
誰でも登れる、
現代に繋がる、
信仰の山でした。
